美 濃 路
第壱編

          

  美濃路は、東海道と中山道を結ぶ重要な脇街道です。

  宮の宿(熱田)で東海道と分かれて名古屋・清須・稲葉・萩原・起・墨俣・大垣・の各宿場を経由して垂井宿で中山道と合流する14里24町15間(約60km)の道で、関ケ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康が凱旋した道でもあります。
  東海道で京へ上る時美濃路まわりで上るほうが2里遠くなりますが、宮宿から桑名宿までの七里の渡しの海路より陸路が安全であり、東海道の鈴鹿峠と中山道の木曾越えの難所をさけるため大名行列も盛んに通った街道です。
 この街道を平成16年3月19日(金)夜行バスで名古屋まで行き20日(土)21日(日)と歩いてみました。
第1日目    平成16年3月20日(土)

宮宿から名古屋宿へ

朝6時30分無事夜行バスで名古屋駅に着きました。
地下鉄で伝馬町駅に向かい東海道の江戸から数えて41番目の宿場でもあり美濃路と交差する宮宿から出発です。東海道は、ここから桑名宿まで海路になり七里の渡し場があります。 

  
七里の渡しの跡」は、常夜灯や鐘やぐらがありここから桑名宿まで4時間の船旅でした。宮宿には美濃路と東海道の分岐点に「美濃路の道標」が建っています。
 
 
「信長塀」は、熱田神宮の境内にあり信長が桶狭間出陣の際、熱田神宮に願い文を奏し大勝したので奉納したものです。
 
 「誓願寺」は、熱田大宮司 藤原氏の別邸があり源 頼朝の生誕の地といわれています。
 
 
「東本願寺別院」の中に「古渡城跡」の碑があり織田 信長がここで元服し、城の規模は東西140m南北100mあったそうです。
 
 
「四間道」(しけみち)は、元禄13年(1700)の大火で名古屋城下1600軒を焼失し、その後防火の目的で4間に拡幅した道で古い街並みが残っています。また「屋根神様」は、厄病や火災等から身を守るため庶民の祈りをこめたものです。
  
「名古屋城」は徳川 家康の第9子義直が初代城主になったお城で入城料500円でした。
七里の渡し跡 美濃路の道標 信長塀  誓願寺
東本願寺別院    古渡城跡 四間道の建物
四間道の建物 屋根神様    名古屋城

名古屋宿から清須宿・稲葉宿へ

 「枇杷島橋跡」は、庄田川と交差する所に架かっていた橋で東西に2橋あったそうです。当時の賑やかさ物語る「絵図」が現在の橋の欄干にあります。
 
「問屋記念館」のある西枇杷島は、江戸の神田・大阪の天満と並び三大市場の一つでありそこに青果問屋の商いと暮らしが再現されています。
  
「屋根神様」がこの当たりにも残っていました。 

  
「清須宿本陣」は、美濃路最大の建坪を誇り琉球王使の休泊にも利用されたところで本陣の門が往時の面影を偲ぶことができます。
 
「清洲城」
は、織田 信長の居城で天下を治める足がかりとなった城で清洲町の町制100周年を記念して復元されたもので、城の対岸に位置する公園に清洲城跡の碑があり、
「信長を祀る小社」があります。
 
「四ツ家追分の道標」は、尾張藩が管理する岐阜に至る六里半の岐阜街道の分岐点に立っていたものです。

 
 「国府宮」は、尾張地方の総鎮守神・農商業守護神・厄除神として広く信仰されているところで、その一の鳥居です。
この当たりで15時20分になり、約26kmぐらい歩いたことになります。夜行バスで余り寝てなく少々疲れたので名鉄 国府宮駅で電車に乗り一の宮市のホテルに向かい今日の予定終了とします。

         
枇杷島橋跡  絵  図 問屋記念館
屋根神様  清須宿本陣 清 洲 城
信長を祀る小社  四ツ家追分の道標  国府宮一の鳥居
2日目 平成16年 3月21日(日)

稲葉宿から萩原宿・起宿へ



  昨日の国府宮駅まで行き稲葉宿を7時45分出発です。
 
「稲葉宿」は、馬45頭人足45人いたそうで宮宿から数えて4番目の宿場町です。本陣跡は、農業改良センタ−になっていますが、3ケ所の問屋場が置かれ西・中・東とあり「中問屋場跡」には、石碑があり、往時を偲ばせる街並みも残っております。街並みの途中には、「右つしま道 三里」の丸い「津島道の道標」があり南方面が津島への道です。

 
「萩原宿」は、稲葉宿から一里半で古い街並みも残っています。
萩原宿を過ぎしばらく歩くと美濃路で唯一道の両側に塚が残り榎の大木が茂る
「冨田の一里塚」があります。

「駒塚道道標」は、美濃駒塚の殿様(尾張藩家老 石河佐渡守)が名古屋への参勤交代のために開いた道で左が駒塚道です。

 
「起宿」は、美濃路きっての宿場で木曾川の東側の堤防沿いに発達したところで「起脇本陣跡」が歴史民俗資料館の別館として公開されています。

また大きな
「土蔵を持った家」が多く目につき勢力のあった宿場ということがよくわかります。
「船橋跡」は、将軍や朝鮮通信使が通行の際に小船を連ねて橋としたところの跡です。

「起渡船場跡」は、木曾川を渡るために渡し船が集まった所で、今も残る石造りの常夜灯は、夕暮れになるとほんのりと灯りがつき船頭達は、その灯りを頼りに岸を目指したことでしょう。ここから対岸をみると「雪をいだいた伊吹山」が見えます。

「渡船場石灯台」は、対岸の起湊にある「おこし川渡場」と刻まれた常夜灯です。
稲 葉 宿
稲葉宿の建物  津島道の道標  中問屋場跡
萩 原 宿
本 陣 跡   建    物  街 並 み
冨田の一里塚  駒塚道道標
         右側                     左側 左が駒塚道で右が美濃路
起   宿
起脇本陣跡   脇本陣の庭園  土蔵を持った家
 船橋跡  起渡船場跡
雪をいだいた伊吹山  渡船場石灯台    踏み切りを渡り右が須賀駅
美濃路と交差する須賀駅近くで、丁度12時になり昼食をとり明日は、仕事もあるので残りの墨俣宿・大垣宿・から垂井宿は、
また後日にすることにして名鉄竹鼻線須賀駅から岐阜羽島まで行き新幹線で帰路につきました。
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