美 濃 路 |
第弐編 |
第3日目 平成16年4月10日(土) |
起宿から墨俣宿・大垣宿へ |
![]() 天気にも恵まれ快晴の日です。 「間の宿跡」は、起宿と墨俣宿のほぼ中間に位置する南宿村にあり諸侯が休息された場所です。 しばらく歩くと美濃路は、「菜の花畑」と桜がとっても綺麗に咲いている堤防に突き当たります。この「堤防の道」は「県道165号線」(小熊正木線)で車も余り通行がなく菜の花や桜を見ながら歩いているとついつい「なのは--なばたけ--の」と口づさんでいました。 |
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間の宿跡 | 菜の花畑 | 美濃路(堤防の道) |
墨 俣 宿 |
![]() 墨俣宿は、起宿から2里17町で大名の定宿としての本陣・脇本陣があり宿立人馬の継ぎ立てを業務とする問屋や墨俣渡しの渡船場があり享和2年(1802)家数263軒人口1218人でありました。 「墨俣城」は、木下 藤吉郎が蜂須賀 小六らの助力で永禄9年(1566)9月12日敵地墨俣へ向かい敵軍と戦いながら14日には築城し15日には信長公が入城し、その功績により武将に取り立てられ出世の出発点となった所です。一夜城として有名な所でこの一夜城は、小さな砦に過ぎませんでしたがその跡に平成3年お城が建ち資料館になっています。 |
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墨俣の渡し | 墨俣城 |
本陣跡の碑 |
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脇本陣跡 | 記念灯籠 | 美濃路の道標 | 東結一里塚跡 |
大 垣 宿 |
![]() 東結一里塚跡を過ぎると揖斐川に突き当たります。揖斐川には美濃路の起・小熊・墨俣の渡しの最後の渡しがあり大垣宿に入ります。大垣宿は、大垣城の城下町で天保期の「宿村大概帳」によれば家数903戸人口5136人旅籠11軒本陣1軒脇本陣2軒問屋場一ケ所助郷村22ケ村と美濃では最も大きな町でした。 |
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佐渡しの常夜灯 | 大垣城 | 大垣本陣跡 |
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船町港跡と住吉灯台 | 船町道標 | 円通寺 |
第4日目 平成16年4月11日(日) |
大垣宿から垂井宿へ
![]() 「久徳の一里塚」は、南塚は残っていますが、北塚は残っていません。ここも地元の人々が大切にされているのを感じることが出来ました。 「綾戸の松並木」は、美濃路に残る唯一の松並木で約1kmの間に数10本の松が残っています。 いよいよ垂井宿も近づいてきました。中山道と合流です。そこには「追分道標」が建っており 是よ里 右東海道 大垣みち 左り木曾街道にいくミち と刻まれた道標です。相川を渡ると垂井宿の街並みに入ります。 「相川橋からの伊吹山」で、3月の時より雪が少なくなっています。「旅篭亀丸屋」は1777年に建てられており200年程以上続き今なお当時の姿を残して営業している貴重な旅館です。私達もここに泊まろうと申し込んだのですが生憎満員で駄目でした。 「垂井の清水」は県指定の天然記念物である大ケヤキの根元から湧出し垂井の地名の起こりとされており、歌枕ともしられ藤原 隆経は「昔見し たる井の水はかはねど うつれる影ぞ 年をへにける」と詠んでおり天下の名泉として親しまれています。 「垂井の一里塚」は、樹齢百数十年という山桜の古木が今も花を咲かせ国の史跡に指定されています。このあたりは中山道で関ヶ原宿に向かって歩いています。 |
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久徳の一里塚 | 綾戸の松並木 | 追分道標 | 左が中山道 右が美濃路 |
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相川からの伊吹山 | 垂井の泉 | 亀丸屋 | 垂井の一里塚 |
これで2回に亘って4日間かかった美濃路の旅は終わりです。美濃路を歩いて立派な神社・お寺が数多くあるのには驚き、歴史があるのだと感じました。 また坂や峠も全然なくただ平坦な路が続き本当に歩き易い路でした。これから仕事の合間をみつけて中山道の関ヶ原・今須・柏原・醒井を経て近江路を 歩いてみたいと思っています。 |
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