中 山 道(武佐宿から京都三条まで)

武佐宿から守山宿(14km)

  武佐駅から平坦な道を進むと「日野川の渡し跡があります。平常はこの川を船で渡り、水量が減ると川に杭を打って止めて二艘の船の上に板を渡して船の橋を作って渡っていたのですね。
 間の宿場であった
「鏡の宿」跡には牛若丸が陸奥に行く途中に元服したという「義経元服の池」「源義経宿泊の館跡」があります。
 守山宿が本宿で「加宿」の役割を果たした
「吉身の街並み」をすぎると守山宿です。守山宿には、「宇野元総理の実家」や延享元年(1774年)に建てられた「中山道道標」が残っており「土橋」は広重の版画守山宿風景はこの橋から眺めて書いたと言われています。
「今宿の一里塚」は滋賀県で唯一残っているものです。

日野川渡し跡  渡しの絵  鏡の宿
義経元服の池 源義経宿泊の館跡  吉身の街並み 
 守 山 宿
「京発ち守山泊まり」といわれ多くの旅人で賑わった宿場で、東門院守山寺の門前町でもあり、守山の名は、桓武天皇が「我が山を守り給う寺」という意味から付けられたと言われています。
宇野元総理の実家  道標 (右中山道 美濃道)  東門院守山寺
街並み  土 橋 今宿の一里塚

守山宿から大津宿(20km)

 守山宿を出て草津宿へむかいます。守山宿を出ると静かな住宅街が続き大宝年間の創建といわれる大宝神社が街道沿いにあります。


       大宝神社




 草津宿に入ります。
 中山道と東海道が交叉するところに建っている
右東海道いせみち・左中山道美のち
「道標」「高札場」があり、少し行くと現存する本陣では最大級の「草津本陣」があります。

 


草 津 宿
 東海道と中山道が合流そして分岐点で多くの旅籠が軒を連ねていました。鎌倉時代から交通の要衝として重要視され信長・家康の政策により宿場機能が整備されました。
   
道標 中山道と東海道合流地点 高札場
草津本陣   本陣内部(藩札) 本陣内部
  草津宿を出て住宅街の狭い道を少し行くと「野路の玉水」にでます。住宅街をさらに進むとJR瀬田駅近くに「瀬田の一里塚跡」「建部神社」の横を通り唐橋を制する者は、天下を制すといわれた軍事・交通の要衝の「瀬田の唐橋」を渡ります。
 
「膳所城跡」に立ち寄ってみました。ここから琵琶湖に架かる近江大橋はとてもきれいでした。
野路の玉水    瀬田の一里塚跡  建部神社
 瀬田の唐橋  瀬田の唐橋(現在)     膳所城大手門    膳所城から近江大橋
                                    
大津宿に入ります。木曽義仲の墓所がある「義仲寺」を過ぎると「滋賀県庁」を左手に見てロシア皇太子が警備の巡査に斬りつけられ負傷した事件があった所に「大津事件石碑」がひっそりと建っています。

大 津 宿

京都手前の宿場で琵琶湖の湖上交通や陸路の要衝であり、近江商人の町として栄え多くの旅人で賑わった宿場です。

義仲寺  滋賀県庁   大津街並み
縁台 大津事件石碑  札の辻

大津宿から京都三条大橋(11km)

 

大津宿札の辻からは国道1号線を進んで行くと、近江の国と京都を結ぶ交通の要衝として栄え今も常夜灯が残っている「逢坂の関址」を越えると、すぐ近くには、関越えをした後や前に休んだ「走井の茶店」があった街並みが国道沿いにあり名水と趣のある庭園がある「月心寺」も近くにあります。
 山科に入ると「みきハ京ミチ」の
「追分道標」が今も健在で役目を果たしていました。
 
「天智天皇陵」を過ぎ「日ノ岡峠」の狭い町並を過ぎると昔は、この街道を牛車でお米を運んでいたモニュメントが作られていました。


逢坂関址  走井茶店  走井茶店あたり(現在)
月心寺  月心寺(庭園)  山科追分道標  
天智天皇陵   日ノ岡峠街並み     牛車

「三条大橋」に到着です。垂井宿からの歩きはこれで一応終わりです。旅人はこの橋を渡って鴨川を越え京の町に入ったのです。
今は交通機関が発達していますが、昔の人は歩きながらその所、その所を楽しみながらきっと旅したんでしょうね。 

私も楽しみながら歩いた旅でした。