西 国 街 道
広島県

 西国街道は、西国の大名が参勤交代などで利用し京都東寺まで結ぶ重要な街道で広島藩が特に西国街道とよんでいたそうです。山陽道ともよばれていますが昔の風情を残した所が沢山あります。
 広島県内の宿場は10宿で東から神辺・今津・尾道・三原・本郷・四日市(西条)・海田・広島城下・ 廿日市・玖波で街道は国道2号線の近くに残っていますが消えてしまいそうな所も沢山あります。以前から市の教育委員会などが発行された地図を頼りに歩いていましたが、書店で見つけた「梶さんと西国街道を歩こう!」の本を片手に暇を見つけながら歩いてみました。 
広島(元安橋)から東方面(神辺宿)へ歩く


広島から瀬野へ

 元安川に架かる元安橋付近は、太田川の水運の便も良く城下町の中心になっていました。立て札が置かれた高札場や馬継場もあり、広島からの里程はすべてこの地点から起算されており、元安橋の側の植え込みの中に広島市道路「元標」(広島県里程元標)があります。
 ここからスタ−トし、「本通り商店街」から京橋川に架かる「京橋」を渡り風格のある「猿猴橋」を渡って行きます。橋の名札は、京都に行く方はひらがなで、京都から帰ってくる方は勉強して偉くなって帰ってくるということで漢字になっていたそうですが、猿猴橋はそうなっていますが、京橋は工事の時になにげなくつけたのかそうなっていませんでした。                   
                                    


 原爆ドーム近くにある元標


本通り商店街 京  橋  猿  猴  橋

 豊臣秀吉が街道筋に松を植えさせたと言い伝えがあり古株が3本残っていたので「三本松」と呼ばれ3代目になる街道松の名残や、福島正則に仕え関ヶ原の戦いで活躍した可児才蔵を祀り合格祈願のみそ地蔵の信仰がある「才蔵寺」には数多くの味噌がお供えしてあります。                        


    三 本 松


    才蔵寺の石段  
                                
 才蔵寺を過ぎ船越峠を越えると西国街道の宿駅として発展した海田宿に出てきます。「千葉家」は、幕府の公用文書や荷物等を継送する役を担ったそうです。  奈良の春日神社から勧請したと伝えられる「春日神社前の常夜灯」の奉献の字は頼山陽の揮毫と伝えられています。
 瀬野川沿いには 参勤交代の殿様をこの松のところまで迎えに来た 街道松の名残の「出迎え松」があります。また、JR瀬野駅の前の国道2号線の向こうに西国街道の町並みや 右は、四日市(西条) 左は、志わ(志和)と刻まれた「道標」も残っています。

才 蔵 寺  千 葉 家  春日神社前の常夜灯


出迎えの松  出迎えの松  道  標


瀬野から西条へ

 瀬野からは登り坂になり、「凉木の一里塚跡」や、西国街道の難所の一つである「大山峠」の頂上手前には旅人が喉を潤した瀬野川の源流があり、大山峠を越え、八本松を通り海田宿の次の宿場である四日市(西条)に向かいます。八本松を過ぎ舗道の道をしばらく行くと土道の飢坂に出会い、登りきると道を挟んで満々と水をたたえた上池・中池・下池の池があり、これらの池は「中の峠池」と呼ばれのどかな水辺の景色が開けます。

凉木の一里塚跡 大 山 峠 大 山 峠の頂上


中の峠池  中の峠池 白牡丹酒造 
                                   
  西条から本郷へ
 酒蔵の続く「酒蔵通り」には、白牡丹酒造の井戸吟醸酒造りに使われている、「いちの井戸」亀齢酒造の前には 「万齢亀(まねき)井戸」 があります。酒蔵通りを左手に入ると大名が泊まって今は、御門が復元されている立派な「四日市本陣跡」があり大いに繁栄した町だったことがわかります。町並みを過ぎるとゆっくりと登り坂になり松子山峠にさしかかりますが、東広島・呉道路の工事中のところまでは、倒木や湿地帯があり歩き難い道です。
国道2号線を横切り下って行くと旅人が喉を潤し、三原御前酒にもおとらないと名泉を称えられた「茗荷清水跡」を過ぎると今の日名内峠に出て行く石畳の残る「瓦坂峠」を経て国道2号線を右下に見ながら「本郷宿本陣」に向かいます
酒蔵通り いちの井戸  万齢亀(まねき)井戸 


四日市本陣跡  茗荷清水跡  瓦坂峠


南方村役場跡  本郷につづく道で右下に国道2号線    本郷宿本陣跡

                          

本郷から糸崎へ
静かな本郷の町並みの中に参禅道場として有名な臨済宗佛通寺派の大本山への「仏通寺への道標」には仏通寺道・稲荷道と刻まれており 文化6年に建立されたものです。それを過ぎると沼田川に沿って国道2号線を進み、県立福祉大学の前を左に折れ、頼兼町を通り海に浮かび小早川 隆景が永禄10年(1567)に築城した別名「浮城」とよばれた城・「三原城址」から「糸崎神社」に至ります。糸崎神社の門は、三原城の侍屋敷門で明治8年に移築されたものです.。私事ですが途中の頼兼町には、母の里があり小さい時連れられて行って夏に西国街道を「アイスクリ−ム」を自転車で売っている人の姿を思い出します。

仏通寺への道標 三原城址   糸崎神社

           

糸崎から松永(今津宿)へ

糸崎神社を少し行くと「六本松の一里塚跡」の石標があり、尾道駅裏から駅前商店街の中に力自慢をした「力石」があります。「防地峠」から尾道の町を望みながらを登り切った所に、これより東は「芸州領の碑」が、道路の向こうには、これより西は「福山領の碑」が建っておりここが、広島藩と福山藩の藩境であることがわかります。藩境には番所がありましたが、今は福山藩側の「福山藩東の番所」が残っています。今津宿に入ると「今津藩本陣跡」「河本家」で脇本陣は手前の蓮華寺になります。

六本松一里塚跡  大人峠一里塚跡   力  石

防地峠から尾道方面  芸州領の碑 福山領の碑 

福山藩東の番所  今津宿(松永市)本陣跡 今津宿(松永市)本陣跡

 

松永から神辺へ

 松永駅をを少し行くと西国街道を行く旅人の休憩の場であった「今伊勢宮」は、現在は参道が国道2号線と更にはJRを横切って行かなければなりません。備後赤坂駅に行く途中に「金比羅大権現の常夜灯」があり少し先にもこれより小さいのがあります芦田川の川沿いを「神辺宿本陣」に向かって歩きます。     
芦田川の川沿いを歩きます

今伊勢宮  金毘羅大権現の常夜灯  神辺宿の本陣

 神辺宿には、菅茶山が開いた塾で1000坪ある「廉 塾」があり、塾の中のにある水路では、塾生が筆や硯を洗ったといわれている「廉塾の筆洗場」「養魚池」は、いつもは養魚として使い、非常時は防火用であったといわれています             
 廉 塾   廉塾の筆洗場  養魚池

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