広島(元安橋)から西方面(岩国城)へ歩く

  西広島から廿日市へ



元安橋
を出発し平和公園の中を通り抜けて行き本川橋と天満橋を渡って行くと右手に火災からの災難よけとして祀られた赤い天満宮の鳥居があり鳥居の左側には、旧山陽道の石標が建っています。その前の道をまっすぐ行き太田川の放水路に架かる己斐橋を渡り、商店街を抜けて西広島駅に出てきます。   




元安橋 
天満宮  太田川  広電西広島駅前の西国街道
西広島から廿日市へ



 西広島駅からしばらく行くと右手に上田宗箇流の家元のお屋敷があります。上田宗箇流は、武将茶人の一人であった上田宗箇を流祖とし、上田家(広島藩家老)代々によって連綿と広島の地で受け継がれた茶道の家元です。海蔵寺は、室町時代に創建されたお寺で、毛利軍が厳島合戦の時陣を張ったとされており、草津城主の菩提寺でもあり、江戸時代の浅野家の時代には広島藩第三家老である浅野孫左衛門一族の菩提寺でもあります。
 広電草津駅から少し行くと巖島神社の御神酒を造っている風情のある造り酒屋の小泉酒造があり、草津の町の中には、みんなが集まり、また旅人の喉を潤した共同の井戸が残っています。
 五日市の光禅寺には石井兄弟が父の仇討ちの旅立ちに際し本懐を遂げるよう植えられた石井兄弟誓いの松がありしばらく行くと楽々園には地元の人が大切に守られている街道松が残っています。




上田宗箇流の家元
海蔵寺から瀬戸内海を望んだ風景  小泉酒造  共同の井戸
石井兄弟誓いの松  楽々園の街道松
廿日市から大野浦へ

 廿日市の桜尾城の城主である藤原氏は巖島神社の神主でもあり、城跡は桂公園になっております。その手前には一里塚街道松があり、廿日市は北前船の寄港地として栄えた町ですから天満宮の石垣は全国の回船問屋から寄進されています。 専念寺の境内には街道を行き交う人達の休息の茶屋があったと伝えられています。新宮神社前の道は土道が残っています。   高宮駅家跡は公用で行き来する人のために駅馬が用意されていました。大野浦駅前には足利義満から九州探題に命じられた
今川貞世が残した歌が石碑に刻まれて一里塚の碑とともに残されています。
 













桜尾城跡手前の一里塚跡 桜尾城跡近くの街道松
廿日市天満宮からの眺望  専念寺 佐原田権現社
神宮神社前の道  高庭駅家跡  今川 貞世歌碑と一里塚跡
大野浦から大竹へ


 大野浦から大竹までには、石畳等が残っている所があり、大野浦駅から少し歩くと苔むした石畳の道に出会い緩やかな坂道を上って行くと吉田松陰が休んだ腰掛けの岩があり、ここからの景色はすばらしいものがあります。 玖波宿の手前の鳴川の石畳の峠を越えると玖波宿の貴重な飲料水として使用された角屋釣井があります。 亀居城は大竹市にあり、完成まで5年をかけて造られた城は3年間で壊された命の短いお城です。










苔むした石畳   腰掛けの岩から宮島方面
玖波宿の手前の鳴川の石畳 角屋釣井

                               亀居城跡
                   福島 正則が慶長13年(1608)に5年の歳月をかけ完成。
                   しかし慶長16年(1611)幕府の命により取り壊されました。 
                           亀居城から大竹市内を眺望
                             下の写真クリックで拡大
 
大竹から岩国城へ


 長州の役戦跡
は、幕府軍と長州軍の白兵戦が激しく行われた所で長州軍が勝ち幕府軍は総崩れになったところです。木の川の渡し跡には気持ちのいい河原が広がりここを渡し守が二人一組で交代で行っていました。渡ったところに吉田松陰が詠んだ歌碑があり、そこを右手に折れていくと峠になっており、所々に旧街道が残っています、この峠を下ると関戸の宿場に出てきて街道沿いに本陣跡があります。関戸から右手に行くと西国街道ですが、岩国城に向かって歩きます。

木の川の渡し跡
木の川の渡しの絵
長州の役戦跡 吉田松陰作の碑 旧街道
旧街道  関戸本陣跡 錦帯橋と岩国城